「欲望」とは「ゴムひも」のようなものである

ひろさちやさんの著作との出会い
タイトルの「欲望とはゴムひものようなもの」、これは宗教学者のひろさちやさんの本で読んだ言葉である。仏教の教えをとことん噛み砕き、ものすごくわかりやすく伝えてくれる著作を多数出版している。
時にその大胆な解釈に異を唱える宗教家もいるようだが、少なくとも僕はひろさんの本を何冊も読んで過去のことでクヨクヨ後悔したり、まだ来ぬ将来のことをあれこれ心配しても仕方ないと気持ちがものすごく軽くなり、その後の人生観に少なからず影響を与えてくれた人である。ミニマリストになってから手持ちの本はほとんどを処分したが、ひろさんの本だけは3冊ほど単身赴任の部屋に持ってきて、何かあると読み返したりしている。
ゴムひもの価値観とは何か
欲望とゴム、と聞いて、「うむ、確かに欲望とゴムには密接な関係があるな」と思われた方もいるかもしれないが、今回のタイトルのゴムはゴムと言ってもそっちのゴムではなく、ゴムひもである。
どういうことかというと、例えば年収500万円の人が、「この間の同窓会で耳にしたけど、俺の同級生のAは年収700万円らしいな、羨ましい」と嫉妬し、必死に頑張ってAと同じくらいの年収をもらえるくらいに出世する。それで満足するかと思いきや、同級生Bは1000万円稼いでいることを知り、再び嫉妬に狂っていつまでも満足することが出来ない、というものである。
幸せとは欲望が満たされることだという考えを持っているうちは、いくら満たしても欲望の物差しはゴムひものようにどんどん伸びていき、いつまで経っても満足することはない、ということである。
これ、僕と同世代はこのゴムひもの価値観持っている人が実に多いと思う。もちろん、僕自身もそうだ。
かつては、日本の世の中が皆ゴムひもの価値観を持っていたのである。
昭和時代は日本経済は右肩上がりに成長を続け、頑張れば収入がいつまでも上がり続けるのが当たり前だった。人口増加が終わり、団塊の世代が引退して、日本の市場が徐々に小さくなる状況にあっても、その価値観はごく最近まで幅を利かせてきたと思う。会社の売上の予算は毎年上乗せで、「もっともっと売り上げは上がるはずだ。上がらないのは努力が足りないからだ」とハッパをかけられ、目標に届かないと責められ、左遷される。これじゃいつまで経っても誰も幸せになれない。しかし、このコロナ禍でこのどうしようもない価値観はついにガラガラと音を立てて崩れ去った。少なくとも僕の勤める会社ではそうだ。
若者の方が少欲知足を実践できていると思う理由
話が少しそれたが、最近の若者は欲望とうまく付き合っているように見える。洋服はファストファッションを上手く着ているし、車も買わなくたってカーシェアリングで十分と合理的に考えている。物質的なものよりも時間の過ごし方に価値を見出している様に感じる。
ともすれば僕ら昭和世代はそのような若者を見て「向上心がない」だの「ハングリー精神が足りない」だの「俺らが若い頃は毎食カップ麺で我慢してスカイラインを買ったもんだ」とか説教したりする。
僕らは自分よりも20歳も若い世代の考えていることに理解出来ないことが多々あるが、彼らから見ても同じくそのようなことをドヤ顔で説教してくるオヤジは理解できない存在であろう。
「少欲知足」という言葉がある。欲を少なくして今与えられたものでありがたいと満足する仏教の教えである。ともすれば「お金お金」の価値観が幅を利かす日本において、この言葉は大きな意味を持つのではないかと思う。
ただ、ミニマリストを自認しているものの、まだ10年以上は働かなければならない自分にとって、欲しいものが全くない人生というのはつまらない。欲しいものがある、というのは仕事をする大きなモチベーションになる。それに皆が少欲知足を徹底的に実践したら経済は回らなくなるだろう。見栄、虚栄、嫉妬、こういう下品な要素も併せ持つのが人間だ。ゴムひもの欲望を全て手放せば良いとは思わない。
しかし、心のどこかで留めておきたい。欲望なんてものは所詮ゴムひもで、お金や物が増えたからといってより幸せになるわけでは決してないと。今現在こうやってブログなんか書いていられることも十分幸せなのだと。
井上陽水の曲で「果てしない欲望」という曲がある。示唆に富んだ、結構ドキッとさせられる曲だ。