【樹木希林さんの言葉】「楽しむのではなく面白がる」とは
先日、図書館で何気なく借りてきた本、「樹木希林の120の遺言」という本を読んでいたら、あるページで手が止まった。
楽しむのではなく、面白がることよ。
楽しむというのは客観的でしょう。
中に入って面白がるの。面白がらなきゃ、やっていけないもの。
この世の中。
「樹木希林120の遺言」樹木希林著 宝島社
「面白がる」という言葉が僕の胸に突き刺さった。おじさんゆえ、感受性もだいぶ硬化している自覚があったのだが、そんなおじさんの胸にもちゃんと突き刺さったのである。
樹木希林さんの生き方
僕は希林さんの自然体な生き様はとても格好良いと思って憧れている。そして彼女の生き方こそロックだと思っている。旦那の内田裕也さんよりもよほどロックンロールだ。
希林さんは最後は全身をガンに侵されたが、病気も自分のあるがままと受け入れて、それさえも面白がろう、という姿勢であったらしい。
なぜそのような生き方を得るに至ったのか。彼女はある宗教を長年信仰しており、考え方・価値観のベースにその信仰があったことは間違いない。今の日本人は「宗教」という言葉を聞くだけで強い拒否反応を示す人が多いが。
しかし、希林さんの言っていた「楽しむ」と「面白がる」の違いって、一体何だろう。
「楽しむ」と「面白がる」の違い
希林さん曰く、「楽しむは客観的である」ということだ。
改めて「楽しむ」の意味を辞書で調べてみると、
- 満ち足りていることを実感して愉快な気持ちになる。「独身生活を―・む」「休日を―・む」「余生を―・む」
- 好きなことをして満足を感じる。「読書を―・む」「ドライブを―・む」
- 先のことに期待をかけ、そうなることを心待ちにする。「子供の成長を―・む」
- 富む。裕福になる。「仏御前がゆかりの者どもぞ、始めて―・み栄えける」〈平家・一〉
<出典 goo辞書>
必ずしも楽しむことが客観的とは言えないが、希林さんの言わんとしていたことはよくわかる。
「楽しむ」ことは自身にとって何かそうさせてくれる良い対象があってこそ出来ることだ。
「面白がる」は、もっとダイレクトに目の前で起こったこと、自分自身に降りかかったこと、もちろん良いこと悪いこと何もあるだろうが、良いこと悪いことの区別なく、あるがまま受け入れてしまおうということではないだろうか。
それにしても、最後の「面白がらなきゃ、やってられないもの、この世の中」という言葉にドキッとさせられる。
確かに人生、やってられないことだらけだ。しかし大事なのはやってられないことに遭遇した時にどう振る舞うかだ。運命を恨むか、自分を責めるか、他人に八つ当たりするか。
そうではなく、「中に入って面白がる」。
このブログのタイトル、「シンプルに安く単身赴任を楽しむ」。単身赴任自体はロクでもないが、それも貴重な人生の一期間である。味気ない生活の中に小さな楽しみを見つけて楽しんでしまおう、ということを提唱してきた。
「楽しむ」を「面白がる」に置き換えてみたらどうだろう。
一人で寂しがる自分自身の心を面白がる。慣れない自炊で失敗した料理の画像を家族に送ってみんなで面白がる。生活費が足りなくなってカップ麺しかない夕食を面白がる。
これらを「楽しむ」という境地に至るには人生を達観した域に辿り着かないと難しいように思うが、「面白がる」であれば僕のような凡人でも出来そうである。本来であればやってられないようなことでも、面白がって笑い飛ばしてしまえばどうってことないように感じられないか。
「面白がる」という言葉、心の片隅に置いておきたい。