2011年3月11日、何を食べたか鮮烈に覚えている
昨日中の投稿が間に合わなかったのだが、10年前の3月11日、皆さん何を食べたか覚えていますか?
僕は鮮烈に覚えている。震災直前に食べた昼飯も、真っ暗な中で食べた僅かな夕食も覚えている。あの日、何も口に入れられなかった人もたくさんいるだろう。東京でも、帰宅困難者となって何も食べずに夜通し歩いた人がいるのも知っている。一方、同じ日本でも被害がなかった地域の人々は普段と変わりない夕食を食べた人もたくさんいるだろう。
あの日、僕は栃木県北部の那須塩原市にいた。配送の仕事を終え、帰社前に遅い昼食を「かっぱ寿司」で食べ終えて、かっぱ寿司の駐車場で一休みしていた。カーラジオのNHKからは、当時の民主党の前原さんが何か問題を起こして国会で自民党に追及される様子が流れていた。
14時46分。
突如ラジオから初めて聞いた不協和音の警告音が。
「緊急地震速報。次の地域では強い揺れに警戒して下さい。宮城県、岩手県…」
同時に地中のかなり深い所から伝わって来るような激しい横揺れが来た。今まで経験したことのないような、まるで街が巨大なコンニャクに乗っかっているような揺れであった。さっきまでいたかっぱ寿司から客も店員も飛び出してきてしゃがみこんでいる。周りは建物とか看板が揺れる「ガシャガシャ」とか「ウワンウワン」と言う音に包まれていたが、それ以外は不思議なほど静かだった。
強い揺れは収まるどころか、途中からさらに激しさを増した。ここで、僕はこれが本当に大変な地震であることを悟った。緊急地震速報の最初に警戒を呼び掛けられた地域が宮城だったから、震源は宮城あたりであるに違いない、宮城から200km以上も離れたこの地でこの揺れの大きさである。仙台の実家に住む両親と、弟一家と妹と祖母と叔母の顔が浮かんだ。恐らく仙台は阪神淡路大震災の時の神戸のような様相になっているのではないかと思ったのである。
まず大急ぎで会社に戻り、会社の無事を確認して所長の許可をとり、自宅の様子を見に行った。この時点で何度も仙台の実家に電話をかけたが、予想通り全く繋がらない。パートに出ていた妻も家の様子を見に戻って来ていた。何せ我が家は築50年の古家をリノベーションして住んでいるのである。恐らく無傷では住むまいと覚悟して見に行ったが、室内は食器が落ちて割れていたものの、家そのものは何と無傷であった。
家から1kmほどの距離の幼稚園に通っていた二人の娘達については、なぜか「大丈夫だろう」と言う確信があった。目に見える範囲では建物の倒壊は見られなかったし、園舎自体も新しく立て替えたばかりで、そこに先生方が側にいてくれるという安心感があったからだと思う。
幸いにも、仙台の僕の家族親戚は全員生きていたことがわかった。それがわかったのはもう夜になってからだったが。しかしラジオからは津波による東北の沿岸の悲惨な状況が次々と伝えられ、僕はもうこの世も終わりだと言う悲壮な気持ちで聞いていた。既に東京電力の原発が電源喪失状態になったことは伝えられていたが、この時点では何とかなるだろうと少なくとも僕自身は楽観的だったと記憶している。
栃木の自宅自体は無事だったものの、自宅の周辺は停電しており、家の中は真っ暗な上、割れた食器の破片が散乱していたので、自家用車の中で一夜を明かすことにした。腹は減っていなかったが、とりあえず台所からバナナを持ってきて家族4人、一本づつ食べた。これが2011年3月11日の我が家の夕食である。この心細い気持ちで食べたバナナの味ははっきりと覚えている。
あれから実に10年経った。10年も経てば記憶も褪せる。あの時無事を喜んだ祖母も叔母ももういない。記憶を風化させてはいけないと昨日のテレビでに出演していたタレントが解ったような顔で話していたが、鮮烈だった記憶が少しづつ風化するのは自然なことだ。風化するから何とか生きていける。もちろん、未だに風化できなくて苦しんでいる人がたくさんいることも知っている。
10年という節目を迎え、多くのテレビ番組で当時の様子を改めて伝えているのを見て、あのバナナの味を思い出した。「ポポポポ〜ン」のCMも思い出した。
10年後の2021年3月11日、一人ではあるが、いつもと同じような夕食を食べている。酒も飲めている。世の中は再び思いもかけないような大変な状況だ。それでもちゃんと生きている。
だけど、今までの人生で、何年何月何日に何を食べたか、ちゃんと覚えているのはあの日の寿司とバナナだけだ。