幕末の下級武士「酒井伴四郎」の江戸での単身赴任生活の日記が面白い

「酒井伴四郎」という幕末に存在した武士をご存知だろうか。酒井伴四郎の名はご存知なくとも、「ブシメシ」という漫画や瀬戸康史君が主演したドラマはご存知かもしれない。そう、「ブシメシ」の主人公のモデルとなったのが紀州藩の下級武士であった酒井伴四郎なのである。

決して歴史に名を残すような偉業を行ったわけではない、地味な勤番侍であった酒井伴四郎の名が、なぜ令和の現代でも知られているのだろうか。

酒井伴四郎は紀州藩から江戸へ単身赴任で出てきて勤番を行ったのだが、江戸での生活、出来事を詳細に日記に記していたのである。なかなか几帳面で、マメな性格であったことが想像される。後年その日記が発見され、幕末という混乱期にあって、地味な下級武士の日常生活がリアルに生き生きと描かれた日記は評判となった。

酒井伴四郎とは

紀州(和歌山)藩の下級藩士であった酒井伴四郎は、幕末の万延元年(1860年)、27歳の時に江戸勤番を命じられ、故郷に妻子を残し、総勢6名で江戸に出てきた。

伴四郎の江戸での職務は「衣紋稽古」というものである。衣紋稽古とは何のことかというと、殿様の装束に関するルールを指導する立場、今でいうとファッションアドバイザーとでもなるだろうか。当時の殿様の服装は、城中はもとより、私邸でのプライベートな時間でも、厳格な装束の決まり事があった。

たかが格好ということなかれ、地方から出てきた自分の藩の殿様がその場にふさわしくない格好を衆目に晒したとすれば、他の藩に恥を晒すだけではなく、その藩の権威にも関わる重大な問題になったのだろう。そのため、装束に関する深い知識や着付けの技術を持ち、それを殿様の身の回りの世話をする小姓達に稽古するという、当時としては責任重大な仕事であったと思われる。

伴四郎と共に和歌山から出てきた6人のうち、伴四郎を含む3名が衣紋稽古の職務であった。その中には伴四郎の叔父にあたる宇治田平三がおり、この平三さんは衣紋道では一目置かれる存在であり、伴四郎にとっては上司かつ師匠でもあった。

しかしこの平三さん、仕事の上では皆の尊敬を集めていたものの、仕事を離れると大雑把というか、ルーズというか、しかも食い意地に汚いという実に人間臭い一面も持っており、同じ長屋で暮らす伴四郎は自分のおかずを盗み食いされたり、几帳面な生活を侵されたりして、憤懣やる方ない思いを度々日記に綴っている。

酒井伴四郎流単身赴任の楽しみ方

江戸に出てきた当初、伴四郎は江戸の広さ、人の多さ、賑やかさに対する驚きを日記に記している。祭りを見に行った折には、「和歌山御祭礼より三倍増之賑にて、誠に驚目ばかり也」と、和歌山の祭りより3倍賑やかだというのである。まるで少年のように輝く目で大都会・江戸を眺めた伴四郎の様子が目に浮かぶ。

衣紋稽古の仕事というのは実際には閑職であったらしく、1ヶ月間丸々仕事がない月もあったようだし、仕事があったとしてもせいぜい午前中の2〜3時間で終わってしまうようなものだったらしい。他は長屋で自分と同居人の飯炊きをするくらいがせいぜいで、自由時間はたっぷりあったようである。これ幸いとしばしば江戸の街中や、時には横浜まで足を伸ばして見聞を広げている。また連れ立って吉原の遊郭へ見物に行った記録も残っている。

三味線の稽古に通ったりもしている。なかなか好奇心旺盛な青年であったようだ。

一見実に羨ましい境遇に思えるが、ここまで仕事が少ないと、わざわざ紀州から江戸まで単身赴任で出て来た意味はあるのだろうかと、今の時代の人だと逆に悩んでしまうかもしれない。

伴四郎の日記で、特に詳細に記されているのが食物に関する記述である。下級武士であるから、贅沢なものは滅多には食べられないが、基本は自炊して倹約しながら、たびたび外食も楽しんでいる。

当時の江戸では何が食べられていたのか

参勤交代で大名や武士、さらに彼らを相手にする商人や職人が全国各地から訪れる江戸の街は、各地の食文化が一堂に集まる「食のターミナル」であった。これは今でも同じである。

そば

江戸の庶民の代表的な外食といえば、まずはそばであった。当時の江戸には蕎麦屋が3,700軒以上もあり、伴四郎も1年間で30回以上蕎麦を食べたという記録が残っている。さらにそのうち半分は酒も一緒に飲んでいる。もりそばやかけそばが主だったようだが、時には奮発して天ぷらそばや五目そばも食べている。

寿司

そばに次ぐ庶民の手軽な外食は寿司であった。寿司は元々塩漬けの魚をご飯に数ヶ月から3年ほど漬け込んで発酵させた保存食であった。その後、江戸時代初期になって漬け込みの期間を短くした生熟れ・早鮨・押寿司を経て握り寿司が登場する。伴四郎の日記には既に握り寿司を食べたことが記されている。当時の寿司ネタは玉子焼き、車海老、海老そぼろ、マグロ、コハダ、穴子甘煮など、現代の寿司と遜色ない。

自炊

地方から単身赴任で来た勤番侍の日常食の基本は質素な自炊であったようだ。長屋で共同生活をしていた伯父の平三や、同僚の大石直助とはご飯は同じ釜で炊いたのを分けあったようだが、おかずに関してはそれぞれが好きなものを自身で用意する、というのが基本的スタイルであったらしい。

日常的に食べられていたのはイワシ・鮭・カツオ・マグロなどの庶民的な魚、マグロとは贅沢な、と思われるかもしれないが、当時マグロ、特にトロは「猫跨ぎ」と言われ、脂が多すぎて江戸っ子には好まれない下魚扱いであったというから驚く。魚の調理法としては、煮ることの他に生食も一般的であったようだ。冷蔵庫もない時代に刺身で大丈夫なのかと心配になるが、案の定お土産で貰ったカツオの刺身を食べて食あたりし、七転八倒の苦しみを味わったという記述もある。

ある日、当時としては高級な魚であったアジの干物を隣人に沢山お裾分けされ、翌日皆で食べようと楽しみに取っておいたところ、例の平三叔父さんがこっそり一人で半分ほどを食べてしまったのだという。しかも前日から平三さんは「腹の調子が悪い」と言っていたのも関わらず、その食い意地の汚さに伴四郎は呆れ返ってしまったという記述がある。またある時は人参の煮付けを多めに作って、数食分のおかずにするつもりだったのに、これまた留守の間にほとんど食べられてしまい、「予一度之さいニも足ぬ程ニ成、」と、「俺の一食分のおかずにもならないじゃねーか!」と怒りを日記にぶつけている。この平三叔父さん、読む限りでは何とも憎めないが、実際に一緒に暮らすのは勘弁だなあ。

その他、ナス・大根・ネギ・菜葉といった野菜のほか、煮豆や豆腐といった植物性タンパクも頻繁に食べられていたようである。

まとめ 酒井伴四郎に学ぶ単身赴任の面白がり方

なんともマイペースに江戸暮らしを楽しんでいるように見える伴四郎の単身赴任生活ではあるが、実際には江戸に来る直前に桜田門外の変があったり、疫病が流行したりして、江戸の街での生活にもそれなりの緊張感はあったはずである。しかしそのような境遇にあっても、基本的には質素でありながら、あれこれ工夫を凝らしながら江戸での生活を最大限面白がろう、楽しんでしまおうという酒井伴四郎の姿勢、これは現代で単身赴任生活を送る僕らにとっても、学ぶところが多いのではないだろうか。

<参考文献>

  • 幕末単身赴任 下級武士の食日記(青木直己)
  • 下級武士の日記で見る江戸の「性」と「食」(永井義男)

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Tanoyatsu

40代半ば、妻と二人の女の子を残し、長野に単身赴任中。料理・掃除大好きのおばさん力高め男子。趣味は料理の他・ジョギング・水泳・乗り鉄。数年前から断捨離・ミニマリストに興味を持ち、「モノを極力持たないライフスタイル」をゆるめに実践中。

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