人生全てのことはなるようになる、なるようにしかならぬ
思うがままにならぬことを思うがままにしようとしない
一所懸命準備した顧客向けのプレゼン、どうか採用になって欲しい。同期で入社したライバルよりも、先に出世したい。そりの合わない上司は、来春転勤になって欲しい。
子供が大学受験であれば、第一志望校に合格して欲しい。出来れば親の自分が卒業した大学よりレベルの高い、学費の安い国公立大に行って欲しい。子供には自分の好みに合う相手と結婚して欲しい。
健康診断で腫瘍が見つかれば、どうか良性であって欲しい。
自身の人生で起きることは、一つでも多く思うがままに行って欲しい。
しかし、なかなかそうは行かないのが人生である。
自分の思うがままの結果にならなかったことを、「自分の努力が足りなかったからだ」、「あの時ああしておけば、こんな結果にはならなかったはずだ」と自身を責めてしまう人がいる。
しかし僕は、人間の努力が結果に影響を及ぼせることもあるが、どう頑張ってもどうにもならないことの方が多いと思う。そのようなことは最終的には、なるようになるし、あるいはなるようにしかならない。
だから犯してしまった失敗をいつまでもクヨクヨくやんだり、まだ来ぬ先のことを心配しても仕方のないことだ。
もちろん失敗の原因について反省したり検証したりして同じ失敗を繰り返さないように努力したり、先のことが上手くいくように準備や対策を施すことは社会人として必要だろう。
やるべきことをやったら、あとは仏様にお任せしておけば良い。落ち着くべきところにちゃんと導いてくれる。
思うがままにならぬことを思うがままにしようとしない、この考えはひろさちやさんの著作を通じて教わった仏教の教えである。
人生、「あきらめ」が肝心
「諦める」という言葉から連想されるのは、希望や目標に向かって努力していたのが、やはり自身の実力や置かれた環境では達成は無理だと、志半ばで断念する、放棄するというネガティブな印象が一般的である。「諦めずに頑張れ」という言葉は、僕自身の人生で何度もかけられたし、僕自身が対して深い考えもなしに他人にかけたこともあると思う。
しかしこの諦めるな、という言葉、実に曲者なのである。
もしも僕が癌になってしまったとして、色々と治療法を試してみたが一向に病気が改善しなくて落ち込んでいる時、見舞いに来た人に「まだまだ諦めるな、頑張れ」と声をかけられたら途方に暮れてしまうのではないだろうか。多くの人は深い考えもなしに励ますつもりで「諦めるな」というのだと思うが、言われた方からすれば「じゃあどうすればいいの」となってしまう。
仏教の世界では、「あきらめる」ことの大切さを説いている。
こちらのあきらめる、は「物事を明らかにする、つまびらかにする」という意味である。漢字で表すとすると、「諦める」よりも「明らめる」と書いたほうが相応しいのかもしれない。
癌になっていろいろな治療を尽くしてみたがもう快癒する見込みがないということが分かった。自身の体については自分の思うがままにならぬことが明らかになった。であれば、辛い癌治療はやめて、癌患者として残された人生をいかに幸せに過ごすか、こっちを考えることにしよう…。
自分の努力で何とか出来ることと、いくら努力してもどうにもならないことを明らかにする。思うがままにならないことを思うがままにせず、その上でいかに生きるかを考える。
これが仏教で言うところのあきらめ、である。
この意味で言うと、今の若い人の方があきらめ上手で、中高年はあきらめ下手が多いように思う。僕らの世代は子供の頃からずっと「そう簡単に諦めるな、もっともっと頑張れ」と根拠のない根性論のような価値観で教育されてきた。そのような僕らの価値観で見ると、今の若者はハングリー精神がない、上昇願望がない、と物足りなく見えることもあるが、我々の価値観はもはや若者たちには通じないし、若者の考え方のほうが合理的な場合もある。昭和生まれの我々は、十分気をつけなくてはならない。
なるようにしかならぬ、と割り切れば人生が楽になる
思うがままにならぬことを、なぜ思うがままにならぬのかと悩む人は大抵真面目で責任感が強い人である。しかし、いくらそのことで頭を悩ませても、結局なるようにしかならないのである。仏様にお任せしておくほかにない。
それ以上クヨクヨ悩んでも、結果が好転することは決してない。むしろクヨクヨしたマイナスの精神でいると、良くない運気を呼び寄せてしまうような気がする。
人生、なるようになる、なるようにしかならぬ、とあきらめて割り切る。そうすることで人生が楽になる。僕はこう考えて生きている。
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