令和元年台風19号による洪水から一年が経った①

2019年10月13日。前日に本州に上陸した台風19号は東日本の広い範囲に大雨を降らせ、多くの地域で洪水の被害をもたらした。
千曲川流域に住む長野県民にとって、忘れられない災害の日である。
あの日、僕は栃木の本宅にいた。
台風の予想進路は関東に上陸、埼玉県・栃木県を縦断したのち東北地方を北上するというものであった。
台風が栃木県を直撃するというのはなかなか珍しい。それも数十年に一度という強烈な台風である。
一方迎え撃つ我が家は築60年にもなろうかという古家である。
9月に千葉を中心として大きな被害をもたらした台風15号が頭にあった。その被害は主に強風によるものであった。ゴルフ練習場の巨大な鉄柱が倒れて住宅に直撃した画像が強烈に記憶に残っていた。
同じ様な強風が我が家を襲った場合、ひとたまりもない。いざという時は自分が人柱となり、屋根に登って屋根を押さえつけるしかない。
12日土曜日の早朝、僕は悲壮な決意とともに家族の待つ栃木へ向けて車を走らせた。
当時、長野市内も強めの雨が降っていた。しかし半日後、あの様なひどい水害に見舞われる程とは感じなかった。恐らく多くの長野市民が同じ様に感じていたと思う。
とにかく台風の直撃を受ける関東地方に意識が向いていたのである。
途中、長野と群馬の県境の碓氷峠の高速道路が通行止めとなっていたが、他は通常よりも車も少なく、順調に栃木の本宅に到着した。
妻と2人の娘は不安そうな顔で僕を迎え入れた。普段は頼りない父親でも、流石にこの様な時は若干は頼もしく感じたのかもしれない。
とりあえず電池式のランタンを準備し、停電に備えた。僕は持参の水着とゴーグルを握りしめ、いざとなったら直ちに水着に着替えて屋根に登り、人柱となる準備をしたのであった。
夜が近づくにつれて雨脚は激しさを増し、外は一面のシャワールームの様になった。
幸いだったのは一番恐れていた風がそれほどでなかったことである。我が家は緩やかな坂の途中にあり、浸水の心配はほとんどないのである。
夜半、もはやピークは過ぎたと思われるあたりで、「ああ、とりあえず我が家に被害はなさそうだ、良かった、さあ寝よう」ということになった。
寝る前に、一応長野の千曲川流域のライブカメラをチェックしたところ、思ったよりだいぶ水位が高い。
少々驚いたが、僕の知る限り千曲川のあの河川敷の広大さと堤防の立派さからして、十分耐えられるだろうと思って眠りについたのであった。
翌朝。10月13日日曜日の朝7時。栃木は台風一過の秋晴れであった。
テレビをつけたらやはり各地で洪水の被害があった様子をニュースで伝えている。
新幹線が水に浸かっている様子をヘリコプターで映している。
これは大変だ。どこだ。見慣れた北陸新幹線の車両だ。え?
長野じゃないか。
しばらく状況を受け入れるまでに時間がかかった。
我に帰って長野在住の係長に電話を掛け、長野が大変な状況になっているが大丈夫か確認した。気楽なもので当の長野市民はまだ状況を全く理解していない。得てして当事者というのはその様なものである。こちらはイライラしてすぐに他の社員の安否を確認する様に指示し、自身はすぐに栃木の本宅を出発し、長野にとんぼ返りである。
長野に通ずる高速道路はすべて通行止めとなっており、ひたすら一般道を進行した。もちろんレジャーの車は皆無で順調で流れたが、途中国道50号の佐野あたりで急に渋滞に巻き込まれた。この先の地域が広く浸水していて通行不能になっていたのである。
仕方ないので脇道へ迂回して抜け道を探したが、やはりその先も浸水していて多くの車がUターンしている。僕のスバルは地上最低高が高いので、なんとか行けないかと迷っていたら、同じスバルが道の向こうから水をかき分けてやってきた。窓を開けて「なんとか行けそうか」と尋ねたら、「これ(僕のスバル)なら大丈夫!」と言われた。この時ほど自分のスバルを頼もしく感じたことはない。すごすご引き返す他の車を横目に、ザブザブ水中を数百メートル走り抜けたのであった。わ〜れは行く〜、さらばスバルよ〜!(さらばじゃマズいかな)
続く
続く